HOME | Karakoro Stage | KARAKORO STAGE 2018 公演メッセージ

   
   

     

ショート・メモリー

     

吉原 豊司

     
 英語に「ショート・メモリー」(Short Memory)という言葉があります。直訳すると「短い記憶」ということになりますが、実際には「都合の悪いことは直ぐに忘れてしまう」といったような揶揄的含みを持って使われています。
 日本人は、この「ショート・メモリー」の名手ではないかというのが、私の考えるところです。
 70年ほど前、親兄弟を戦地に失い、飢えと空襲に苛まれ、もう戦争はコリゴリだと不戦の誓いを憲法に盛り込んだ日本が、いつの間にか航空母艦まで持ちかねない世界有数の軍事大国になりそうです。
 「国権の発動たる戦争と武力の行使は永久にこれを放棄する」「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」…… 日本人の誰しもが胸に秘めていた、あの理想は「ショート・メモリー」の彼方に押しやられてしまったのでしょうか。


 『ハンナのかばん』という劇を観た時、私はハッとしました。そこには、「たとえ都合が悪くとも、過去に犯した間違いはしっかり記憶に留めておかなければいけない。そうしてこそ初めて、同じ間違いの繰り返しを避けることが出来るのだ」という、切実なメッセージが込められていたからです。
 次世代に記憶のバトンを渡そうとしているフミコ先生。それをしっかり受け止め、そこから何かを学ぼうとしているアキラ君、マイコちゃん。そんな人たちに心からの声援を送りたいというのが私の思いです。


 余談になりますが、太平洋戦争の末期、私はアキラ君よりは少し年下の8歳でした。東京に住んでいたため、家は雨あられと降る焼夷弾に焼かれて全滅。一番つらかったのは、辺り一面の火の海を見て、可愛がっていた子犬「ピス」が発狂。飛んできた憲兵に銃殺されたことです。私の目の前で。
 そんなわけで、私はいまだに犬を飼えません。あれからもう73年だというのに …… でも、この記憶は一生消さず、「ロング・メモリー」にとどめておきたいと考えています。
     
     
     

     

ハンナはなぜ殺されたのか

     

石岡 史子

     
 ハンナはなぜ殺されたのか。舞台を観終わって、皆さんの頭の中には大きな疑問が残ったままかもしれません。第二次世界大戦時、ナチス・ドイツとその占領下のヨーロッパに暮らしていた約600万の人々が「ユダヤ人である」という理由だけで殺されました。そのうち子どもは約150万人。他にも障害者やロマの人々も殺されました。
 当時のドイツは、第一次世界大戦敗戦、屈辱的なベルサイユ条約、さらに追い打ちをかけるようにやってきた世界恐慌で、経済は混乱し、失業者が街にあふれていました。将来に希望が持てず、不安を抱えていた人たちに対して、ヒトラー率いるナチスはこう叫びました。「ユダヤ人こそ不幸の原因だ」。そして、選挙を重ねるたびに少しずつ議席数を伸ばし、合法的な手段でヒトラーは政権を握りました。差別的な法律をつくり、ユダヤ人の市民権を奪いました。最先端のコンピューター技術が、国勢調査で集めた膨大な個人情報を処理し、ユダヤ人を「他者」として区別し、社会から排除するための道具になりました。医師や看護師は、人間の「いのち」に優劣があると信じ、障害者の「安楽死」殺害に関与しました。
 一人ひとりの命と人権を大切にする社会をつくりだすために、私たちは何ができるのでしょう。ハンナという一人の少女の悲しみや希望、家族への思い、精一杯生きた姿に、思いをめぐらせることができたら・・・その同じ想像力で、あのとき日本軍占領下のアジアの国々で殺された子の姿にも思いを広げたい。すぐそばで今、ヘイトスピーチで傷ついている子の悲しみにも寄り添いたい。ハンナの兄ジョージ・ブレイディさんと出会って17年目のいま、私はそんな思いを強くしています。すべての人が自分らしく生きられる社会をつくるために、一人ひとりができること。大切なヒントは歴史の中にあります。
 からころの作品を通して、皆さんはどんな想像を広げてみますか。
     
     



NPO法人ホロコースト教育資料センター代表
https://www.npokokoro.com/

     
     
     

     

ユダヤ人の伝統的ダンスから
     

ジェフ・モーエン

     

からころのみなさんが「ハンナのかばん」のダンスに取り組み始めたのは、年末年始のダンスワークショップでした。今回の公演の振付けは、ユダヤ人の伝統的なダンスから着想を得ました。からころにとって何か新しいものを創り出すために、さまざまなダンスのリズムとステップを合体しました。学さんの音楽は、さまざまなメロディーやハーモニーに溢れていて、本当にワクワクしてきます。特に、仮面をつけた人影のための音楽が私は好きです。
いつもながら、みなさんは一回一回の練習に一生懸命に打ち込み、ダンスのスキルを身につけ成長していますね。演者の人たちが腕や上体を美しく動かして表現するさまを目にすると私はとても満足します。
今年もまたからころに招いていただき、みなさんと一緒に取り組むことができること、心より感謝いたします。ピッコロシアターでの公演をともに分かち合うことを楽しみにしています。
     
     
     
The performers began working on the dances for “Hana’s Suitcase” in our New Year workshop. The movements for this project were inspired by traditional Jewish dances. I incorporated the rhythms and steps from various dances to create something new for Karakoro.
Gaku-san’s music has so much variety in melodies and harmonies that my creativity was reinvigorated. I especially love the music he created for the masked figures.
As always, the Karakoro members worked hard at every rehearsal and continue to grow in their performance abilities. I am especially happy to see the group’s arms and upper bodies working so beautifully and expressively.
My heartfelt thanks to Karakoro for inviting me to work with them again this year. I am looking forward to sharing the stage with them here at the Piccolo Theatre.
     
     

Jeff Moen

     
     
     

     

Photo by Nobuyo Nishimura

からころ楽団成長記
     

高木 聡子

     

 今から10年程前、松井さんから「舞台を歌って、踊れて、芝居ができて、楽器もやろう」という提案で何人かが早速やりたい楽器を選び、私は大学生の時に少しやっていたバイオリンに再び挑戦することにしました。ほとんどのメンバーが楽器を持つことさえ初めてでした。
 こうしてはじめに取り組んだのはベートーベンの「第九」といっても、有名なフレーズの部分を私たちが演奏出来るように学さんが編曲したものでした。
 それから少しずつ練習を重ね、3年をかけて「第九」を第1楽章から第4楽章まですべてをやりました。最初は音符の難しさにアップアップしながら必死で演奏しているといつの間にか他の人と大幅にずれてしまって「どこやってるかわからなくなりましたー!」と誰かが手を挙げ、仕切り直して再開の繰り返しでした。止まらずになんとか最後までたどり着いた時には皆でとても感動したものです。
 翌年はサン=サーンスの「動物の謝肉祭」を三線や二胡、エレキギターが入って、それぞれの楽器を生かした編曲を学さんが作ったものでしたが、今から思うとアンサンブルとは程遠い、それはそれで楽しかったのですが、おもちゃ箱をひっくり返したようなものでした。
 次の年から4年間の舞台は「宮沢賢治シリーズ」をミュージカルにしてやりました。「セロ弾きのゴーシュ」「銀河鉄道の夜」「風野又三郎」「雪渡り」です。すべて学さんの作曲で、私たちそれぞれの演奏レベルに合わせたオリジナルです。この頃になると、やっとチューニングで音程や響きを合わせようとしたりするなど、自分達で出来るようになりました。また、学さんの指導する「曲を音楽にするにはどうしたらいいか」という本質にも触れられるようにもなってきました。
 その頃「学さんのLINEダメ出し」が始まりました。
 稽古が終わって数時間経つと、学さんからLINEを通じて、稽古の映像を見た感想やダメ出しが送られてきます。私たちは、それを受けて映像を見ます。そして自主練習では、言われた課題にポイントを絞って練習し、演奏に生かす努力を始めます。学さんの稽古後のLINEのダメ出しを誰もが心待ちにするようになりました。
 昨年は「バグダッドの兵士たち」、そして今回は「ハンナのかばん」です。学さんのオリジナル曲は年々私達の力量に合わせて複雑に、そして楽しく素敵になっています。
 楽器を響かせることや拍子、フレーズ感、和音を感じる、積極的に指揮に合わせることはもちろんのこと、演奏者同士で合わせていくなどにただ今挑戦しています。一歩ずつ階段をのぼってきたこの頃「アンサンブルって楽しい!」と思えるようになりました。
 カメよりも、かたつむりよりも歩みののろい私たちに根気強く教えてくださっているマエストロ学さんに本当に感謝です!
 そして私達の演奏を観客の皆様に楽しんでいただけたら嬉しいです。
     
     
     

     

Over the Rainbow とは

     
屋良 一菜

     
 メンバーがピッコロの舞台に立つのは、これが6年目になります。そして今年は、全員で打楽器を演奏することに挑戦しました。1月から毎日地道な練習を重ねてきました。最初は音が揃いませんでしたが、一音ずつ合わせる練習を続け、音が合った時には全員で拍手をして喜びあいながら頑張っています。緊張してなかなか練習に参加できないメンバーがいると、みんなでそのメンバーを励まし、応援しながら練習を重ねて来ました。最初は「戦争の話は怖いから聞きたくない。」と言っていたメンバーもだんだんと気持ちが変わり「詩にあわせてパーカッションを叩きたい。」と言うようになってきました。詩の内容をしっかり理解するために、詩の中にある南京虫の写真を見たり、ゲットーの中でベッドにギュウギュウに押し込められている写真を見たりしました。メンバーの誰もが写真を見て「ひどい。」「おかしいと思う。」「こんなのは楽しくない。」「気持ちがしんどくなってきた。」など、気持ちを言葉にしていました。
 なにに対してもこんな風に思いを言葉にしながらの毎日はとても賑やかで、活気があります。音楽やからだ育て、ダンス、絵画・造形、龍舞といった芸術活動はもちろんのこと、調理や掃除、買い物など生活の基盤となることにスタッフもメンバーも一緒になって楽しんで取り組んでいます。
 昼食作りでは、料理に使う野菜や肉もみんなで市場に買いに行き市場の人ともすっかり顔なじみになりました。料理はそれぞれに得意な作業がうまれ、スライサーを使うのが上手な人もいれば、お米を研ぐのが上手な人、みじん切り、味付け、盛り付けが好きな人など様々です。みんなで協力して料理を完成させ食べる昼食は最高です。食後の片付けもみんなでやり、一枚お皿を棚にしまう度に「ありがとう。これはこっちにしまってね。」と思いやりの気持ちのこもった声が聞かれます。助けたり、助けられたり、一緒にがんばったりする関係が私は好きです。
 むかでのシーンと詩の朗読に合わせてのパーカッションのシーンに出演するみんなが楽しんでいる姿やチームワークの良さを観客の皆様に感じていただけたら嬉しいです。
 ホワイエにはメンバーの絵画を展示しています。額縁もすべて自分たちで作りました。そちらもぜひご覧ください。
     
     
     

     

“石岡史子さんを演じて”
     

橋本 佳代子

     

「ハンナってどんな子どもだったのだろう?」という子どもたちの疑問に答え起こした石岡史子さんの行動力には、本当に驚きます。少しでも本物にふれておきたいという思いでテレジンへの旅に、私も一緒に行くことにしました。
 私たちが最初に出会ったのは、ドリスさんというテレジンを生き延びた92歳の女性でした。母はテレジンで、父はアウシュビッツで殺されたけれども、兄が生き延びて再会したことが人生で一番嬉しかったことだと語り、赤十字の査察のために豊かな暮らしに見せかけた嘘の映像を撮ったこと等、当時のテレジンの衝撃的な様子を鮮明に話してくれました。小柄で人懐こく可愛い方ですが、テレジンの体験を語り継ぐために、今もヨーロッパのあちこちで講義をしているというのです。
 子どもたちが平和について学べるためのワークショップを行っているユダヤ博物館の職員の方々にも会いました。このワークショップでは、ハンナのようなユダヤ人の子どもがホロコーストで受けた差別や虐殺を学び、その上にドリスさんのような生存者からなるべく実際の体験を聞くと素晴らしい内容です。私たちもこのワークショップを受け、5人のユダヤ人の子どもたちの体験を聞きました。穴の中に隠れて暮らし、みつかって拷問を受けても、家族の隠れ場所を話さなかったオットー少年の話など、ひとりひとりの人間に起こった恐ろしい事実に私は身震いがしました。この話を伝えてくれたズザナさんが、悲しみや怒りを持ちながらも、冷静にこれらの事実を伝えようとしている姿は、芝居の中で石岡史子さんに協力してハンナの所在を探してくれるルドミーラやミカエルに通じるものでした。
 私たちをテレジン収容所やハンナの生家ノブ・メストに案内してくれたのが、日本語がたいへん上手な通訳のカテリーナさんです。彼女が「みなさまに是非、見せたいものがあります。」と言って案内してくれたもののひとつに、プラハの鉄道の駅にある手と手が暗闇の中を別れていく姿を表すモニュメントがありました。チェコから600人の子どもをイギリスに送って生き延びさせるため、親子の別れを描いたモニュメントでした。
 チェコへの旅で出会ったのは、石岡さんが私をこの物語に導いてくれたように、それぞれに平和への熱い願いを持ち、私たちを案内してくれた人々でした。これらを受けて、「確実に悪くなっていくこの時代、何ができるのか?」「身近な人々と平和をどう築くのか?」ということをお客さんに問いかけるとともに、自分にも問いかけていきたいと思います。
     
     
     

     

“ユダヤ人を演じて”
     

林 由理佳

     

 私の父親は障害者で、子どものころから障害者である父親を恥ずかしいと思ってきました。そして「失敗したり問題があることは恥ずかしいことだ」と思い続けて、大人になった今も私は問題がある人を軽蔑したり、問題がある自分を恥ずかしいと思う気持ちがあり、自分の失敗を隠して嘘をついたりしてしまいます。もちろんそんな私を決してよいと思っていませんが、知らず知らずその状態におちいってしまうのです。
 チェコの旅の話が出た時に、私は自分が体験できることは何でも体験して、そんな差別を乗り越えるチャンスになるかもしれないと直感的に思い、松井さんと一緒にチェコに行くことを決めました。
 たくさん体験をしたチェコの旅でした。一番印象に残ったのは、テレジンのゲットー博物館に展示されていたポスターでした。ポスターには「ユダヤ人はプール立ち入り禁止」「ラジオはナチに渡さなければならない」「公園に入ってはいけない」「マーケットでの買い物は1時間のみ」「森の中の散歩禁止」などなど…そのポスターは大きな丸い柱に隙間なく貼られ展示されていました。私は禁止の多さに圧倒されてしまいました。
 もし私が差別される側の人間で、買い物に行ったり、映画に行ったり、電車に乗ろうとして「お前は立入禁止」と書かれていたらどう感じるのだろうか?ポスターを見ながらそんなことを考え、展示を進んでいくと、「ユダヤ人が存在したらこの世は悪くなる。皆に食べ物が行き渡らない。文化的にも経済的にも悪くなる。ユダヤ人は0人にすべき」というポスターが目につきました。私はこんなポスターが街に貼られている状況を想像して気分が悪くなりました。
 しかし、これは私とは関係ない遠いヨーロッパの国で起こったことではなく、今もイスラム教の人達への差別や、過去日本が戦争中に中国や韓国の人達を差別して奴隷のようにしてきたのと同じなのだと気づくのにそんなに時間はかかりませんでした。
 そして私自身の差別をする気持ちや、周りの人を先入観や思い込みで見たり、物事を判断していることが戦争をしたり、ホロコーストのような悲惨な出来事をおこしたりしていくのだなと確信しました。
 今回の公演で「ハンナのかばん」を日本人の私達、そして私自身がやる意味はとても大きなものだと思います。“自分だけが楽をして得をしたい”“自分だけがいい人でいたい”という気持ちが自分の中にあって、それがたくさんの人を悲しませることになっていくのではないか、そんなことを考えながら舞台の稽古にのぞんでいます。私の差別をする壁は高いけれど、あきらめず、いつかこの壁を乗り越える時がくると信じています。
     
     
     

     

“ハンナの兄、ジョージさんを演じて”
     

木村 拓未

     

 今回の公演で、ハンナの兄のジョージ役を演じることになり、松井さんのチェコ行きに同行しました。それは、ハンナやジョージがどんな場所で生まれ、どんな思いでテレジンへ行き、ジョージが生きのびてきたのか、知りたいという思いが強くあったからです。


 実際にジョージの育った場所、ノブ・メストはのどかで自然豊かで教会や学校が広場を囲んだり、通りには小さな花屋や映画館が立ち並ぶ、幸せな雰囲気が漂う田舎町でした。
 ジョージやハンナはきっと幸せな日々を送っていたのだろうと想像できます。
 こののどかな町からハンナとジョージは2人だけでトジェヴィーチへ行き、2日間もかけてテレジンへ移送されたのかと思うと、僕はかなしくて息が詰まりそうになりました。


 テレジンは立派な綺麗な建物が並ぶ小さな街でした。 元々そこには6000人ほどのチェコ人が住んでいましたが、チェコ人を追い出してナチスは強制収容所にしてしまいました。そしてそこに14万4000人ものユダヤ人が送られてきました。
 そして、そのテレジンの生還者、ドリスさんにお話を聞くことができました。テレジンは当時人混みに溢れ、辺りには死体が転がり、視界にはいつも虫が舞い、衛生面は最悪だったようです。ドリスさんは、一生テレジンで過ごすと思っていたと言いました。ユダヤ人にとって戦争がいつか終わるだろうという希望なんかなかったからと語ってくれました。食べものは子供のあたま程のパンの4分の1を渡され、それが1週間分の食料だったそうです。
 そんな状況の中、ハンナとジョージは週に一度しか会うことができませんでした。どんな話しをしたのだろう、どんな気持ちだったんだろう、と僕は寂しくてつらい二人の気持ちに思いを巡らせました。
 ジョージは配管工の仕事につかされました。それとは別に、男の子達で雑誌を作っていたそうです。自分でナイフを作って小さなパンを少しずつ切ったり、木の枝をスプーンの様にしてスープを飲んでいたという話を聞き、ジョージの人間らしく生きたいという意志がひしひしと僕の身にしみてきました。


 ジョージがアウシュビッツへ移送されたとき、一緒にいた友達2人はガス室へ連れて行かれたそうです。ジョージが連れて行かれなかったのは、配管工の技術を持っていたからです。何度もきつい労働、暴力、寒さ、飢えで死にそうになりましたが奇跡的に助かり、石岡史子さんとも出会えました。それでハンナのことが明らかになり、僕たちが“ハンナのかばん”の公演ができるのだと思うと、これもまた奇跡だと僕は思いました。この奇跡的な繋がりがあるから自分がジョージ役を演じられたのです。この舞台からさらに繋がりが生まれ、必ず世界に平和がおとずれることを信じ、演じたいと思います。
     
     
     

     
     
     
『ハンナのかばん』に思いを巡らせて
     

松井 洋子

     

 「アウシュビッツで目にすることはとてもひどいでしょう。気分が悪いでしょう。でも、ナチスは変質者でも悪人でもなく普通の人なのですよ。自分だけが得をしたい。認められたい。そういう心が戦争を作るのですよ」
 これは、アウシュビッツ博物館のガイド中谷剛さんのことばです。


ユダヤ人問題の最終解決のためのアウシュビッツを訪れて
 1999年から2000年、2001年とポーランドのアウシュビッツホロコースト博物館を私とからころのメンバーが訪れました。敷地内にはユダヤ人が虐殺されたガス室や焼却炉、犠牲者の骨を棄てた池などが残されていました。大きなガラスケースには犠牲者の髪で埋め尽くされていて、また別のガラスケースにはかばんが山積みになっていたり、眼鏡が数え切れないほどの数で埋め尽くされ、かわいい子ども達の服もありました。
 私達は博物館の少し離れた隣に位置するビルケナウに行きました。ビルケナウはヨーロッパ中のユダヤ人が貨物列車で連れて来られた終着駅で、150棟以上の朽ち果てた木造バラックと石造りの煙突が残り、それが幾重にも重なって立ち並び、遠くまで続いていました。
 元囚人で博物館の館長さんだったスモーレンさんから話を聞くことができました。スモーレンさんの話は、家族のつながりも名前もそれまでの社会的キャリアも奪われ、暴力にさらされるエピソードが次から次へと赤裸々に語られました。そして最後に「『ユダヤ人はずるくて欲張りで信用できない民族なので危険だ』というデマを広げ、全てのユダヤ人を根絶する口実にしたのです」と静かだけれど怒りに満ちた声で話を締めくくりました。
 その話にショックを隠しきれない当時中学2年生のタツヤが「こんな恐ろしい戦争が起こらないようにするにはどうすれば良いですか?」と質問すると、スモーレンさんは「いろいろな国を旅して下さい。いろいろな国の人たちと仲良くなって下さい。いろいろな国の文化を知って下さい。そうすれば仲良くなった人を殺したり、文化を壊したいとは思わないでしょう。」と答えました。






ユダヤ人の少女の物語『ハンナのかばん』
 それから18年の月日が経ち、吉原豊司さんからユダヤ人の少女の物語「ハンナのかばん」を紹介され、私達からころはミュージカルにして取り組むことにしました。


 物語は、アウシュビッツから届いたハンナと書かれた茶色のかばんを手がかりに、ホロコースト教育資料センターの石岡史子さんが日本の子ども達と少女ハンナがどんな子どもかを突き止めていく実際にあったお話です。
 ハンナはユダヤ人というだけで電車やバスに乗ること、自由に外を歩くことさえ禁止され、学校へ行くこともできず、遊園地やプールからも締め出されました。
 戦争が始まって2か月後にはユダヤ人であることがすぐわかるように黄色いダビデの星をつけなければならなくなりました。それは街からユダヤ人を追い出し、ユダヤ人だけを集め、収容所へ送るためのものでした。ユダヤ人の仕事も財産も奪い、生活できないようにして、その上でユダヤ人を絶滅させようという考えを推し進めるためのゲットーをヨーロッパのあちこちにナチスは作りました。
 ハンナはそのゲットーの一つである、テレジンに送られました。テレジンでは子どもたちが男の子と女の子に分けられて木の棚のような三段のベッドに毛布が一枚、わらの入った布団が一枚あるだけでした。多い時にはそのベッドの一段に6人が重なりあうように寝ていました。テレジンの生活は飢え、寒さ、親と会えない寂しさ、一日10時間から12時間の労働の中で待っているのは薄いスープと固いパンのみでした。
 稽古を進めているうちに、ハンナと兄のジョージが収容されたテレジン、そして彼らが幸せに暮らしていたふるさとノブ・メストに行って、できたらテレジン収容所を生き延びた人と話をしてみたいという強い思いにかられました。それで日本に留学していた頃に知り合ったチェコ人のカテリーナに連絡を取り、本番までちょうど一ヶ月前の4月5日に私はチェコへと飛び立ちました。


     
     
     



強制収容所テレジンを生き残ったドリスさん
 チェコのプラハに行ってみてわかったことは、現在25人の生き残りの人達の中に病気の人、思い出し話すとつらくなってしばらくは落ち込んでしまう人がいたりして、話を聞くことは容易ではないということでした。それでもカテリーナはつてを頼ってユダヤ博物館の職員に私の気持ちを話してくれ、テレジンを生き抜いたドリスさんという方に会えることになりました。
 ユダヤ博物館に約束の午前10時に行くと、博物館のスタッフが迎えてくれ、間もなくドリスさんがやってきました。彼女は博物館主催の『“ホロコースト”と“ハンナのかばん”』のワークショップの後、子ども達に自身の体験を話をしているそうです。92歳の彼女はドイツ語、チェコ語、英語でテレジンの体験をヨーロッパのあちこちで講演もしているといいます。明るく快活で92歳とはとても思えない若々しさです。まず彼女は「どのようにテレジンに送られたのか」を話してくれました。ナチスがドリスさん家族のアパートをとりあげ、何家族も住まわせているアパートの一室に引っ越しました。その上でテレジンにはユダヤ人だけのもっと良い生活があると期待させ、テレジンに移させました。
 多くの人と同様にお母さんはテレジンに着くとまもなく亡くなりお父さんはアウシュビッツに連行されて殺されたそうです。
 テレジンの生活は、一つの建物の中にたくさんの人でごった返し、汚く、空気が悪く、ハエがいっぱいで、シラミやノミや南京虫にかまれ、毎日100匹の南京虫を殺して血だらけになったと言います。
 それでも彼女は、「テレジンで羊飼いの仕事をしていた。空気の良い外に出られたのは幸運だった。羊の毛を刈ったり、乳をしぼったり。全てはドイツ人のためよ。でも時々はミルクを飲んだのよ」と笑い、ドリスさんは写真を見せてくれました。もちろん写真は禁止です。内緒で撮ってくれたと大切に保管されていました。テレジンはドイツ兵が周りを見張っていますが、その外でチェコの警察が見張っています。たまたま警察官の一人が娘さんを亡くし、ちょうどドリスさんと同じ年頃だったので、心を寄せてくれ、アウシュビッツが解放された1945年1月27日に「私はその警察官の娘になることができた」と話していました。
 ドリスさんとは昼食を挟んで4時間以上も途切れることなく話しました。





強制収容所テレジンを訪れて
 プラハからバスで2時間、田園風景の中を走っていくと突然、18世紀後半にオーストリアが建設し、女王マリア・テレジアの名より命名されたレンガ作りの堀に囲まれた要塞と立派な建物が私達の目の前にあらわれました。堀の立派なレンガ作りの橋を渡ると、その町は整然としてまさかこれがナチスが強制収容所にしたゲットーだとは説明がなければ今は誰も信じないだろうと思われました。
 テレジンではナチスは人間を三種類にわけました。

一つ目はからだが弱い人、老人などです。ほとんど食べ物を与えられず、年をとっても元気な人が2週間で亡くなったと言います。


二つ目は移送のための人間です。最終解決のためにアウシュビッツへ送るためです。労働に耐えられる人間は鉱山や鉄道など、毎日の重労働が課せられました。待っているのは子どもの頭ほどの大きさのパンの四分の一を一週間分として、そして腐ったじゃがいもの味気ないスープです。


三つ目はナチスが世界を欺くためのプロパガンダです。プロパガンダは赤十字が視察に来るその日に向け、サッカーを興じさせ、子ども達は元気に明るく振舞い、女たちは楽しくおしゃべりや編み物を楽しんでいる様子を演じさせました。
 世界のあちこちからユダヤ人が送られてくると、月日とともに人間がますます増える中、大人は子どものために秘密の学校を作り、芝居やオペラを催したりしました。少年達はプロパガンダのために許された雑誌を作り、その中に詩もありました。その一つを紹介します。

When a new child comes
Everything seems strange to him.


What, on the ground I have to lie?
Eat black potatoes? No! Not I!
I’ve got to stay? It’s dirty here!
The floor-why, look, it’s dirt, I fear!
And I’m supposed to sleep on it?
I’ll get all dirty!


Here the sound of shouting, cries,
And oh, so many flies.
Everyone knows flies carry disease.
Oooh, sometimes bit me! Wasn’t that a bedbug?


Here in Terezin, life is hell.
And when I’ll go home again, I can’t yet tell.


  Anon.


     
新しい子がやって来るたびに
その子はここはすべて変だと思うだろう。


こんな風になんで私はこの床に寝るの?
古いポテトを食べるなんて、嫌だ!
私はなぜここに居なければならないの?


ここは汚い!
床を見て!なんて汚いの!
私は怖くてたまらない。


私はこの上に本当に寝るの?
私のすべてはすぐに汚くなってしまうじゃないか!
叫ぶ声と泣き声があちこちから聞こえてくる。


ハエがいっぱいだ!
誰もが、ハエが病気を伝染させることを知っているよね。
ああ、私を何かがかんだ!
南京虫だ!!


ここテレジンでの生活は地獄です。
いつか私は家に帰れる時がくるのだろうか…。


 作者不明






     
このようにテレジンは衛生的にひどく、飢えや暴力があったものの勉強をしたり芸術活動をしたりして人間としての生活があったことは私には救いのように思いました。「アウシュビッツに比べたらテレジンは天国だった」という元収容者がいるのが私はとても納得できました。
 ゲットー収容者の誰もがアウシュビッツに行けば、ユダヤ人絶滅のための死が待っていることを薄々わかっていた中、ジョージと少し遅れて妹のハンナはこのテレジンを後にし、ぎゅうぎゅう詰めの貨物列車でアウシュビッツに送られ、ハンナは着いたその夜ガス室で殺されました。


ハンナのふるさとノブ・メスト
 列車で一度乗り換えて、3時間あまり林や森をくぐり抜け、広々とひろがった畑や静かに流れる川を眺めながら着いたハンナとジョージのふるさとはプラハから南東170kmに位置する人口10,000人ほどのとても静かな小さな可愛らしい町でした。列車を降り立って広場を目指すと、広場を囲むように学校、教会、市役所、そして黄色い壁の2階建てのハンナの家がありました。
 建物のちょうど真ん中にあたる壁面にハンナの記念プレートがつけられていました。入ると、ハンナやジョージの子どものときの写真、家族の写真、そして生還後のジョージ・ブレイディさん、石岡史子さんの写真が飾られていました。現在は1階がお店で、2階の半分が雑貨屋さん、そしてハンナの部屋だったところは美容院になっていました。



 隣のレストランで私達は遅い昼食のために入ると、10人のおばあさん達がにぎやかに午後のお茶を楽しんでいました。私はもしかしてこの中にハンナを知っている人がいるのではないかと思い尋ねると、一人の小柄なおばあさんが「知ってますよ。私よりずっと年下なので友達ではなかったけれど、このあたりでは大きな雑貨屋さんだから買い物に来てよく見かけましたよ」と答えてくれました。「戦争の時、どんなふうでしたか?」との質問に「静かだったわよ。戦争が終わる頃、一度だけロシアの爆撃があったわね、何人かが死んだのよ」と答えました。「ユダヤ人のことをどんな風に見ていましたか」という質問に、「同じ人間よ」と、そして「ユダヤ人の家族はこの町では二軒だけよ」と話してくれました。その二軒のうち、一軒がハンナの家族かと思うと、ナチスはこんなのどかで静かな田舎町までユダヤ人を見逃さなかったのかと私はたまらない気持ちで胸が張り裂けそうになりました。



 映画館やハンナの通っていた学校などを見て歩き、ノブ・メストを後にして列車でプラハの駅に到着するとサー・ニコラス・ジョージ・ウィントンとイギリスに救出される子どもたちの悲しげな表情の銅像が私達を迎えてくれました。ニコラス・ウィントンは第二次世界大戦がはじまる直前、ナチスドイツによるユダヤ人強制収容所に送られようとしていたチェコのユダヤ人の子どもたちおよそ669人を救出し、イギリスに避難させたのです。
 私の周りや世界に起こっていることに関心を持ち続け、二度と戦争を起こさせない強い人間になりたいと私は改めて心底思いました。











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