HOME | Karakoro Stage | KARAKORO STAGE 2019 公演メッセージ

   
   

     

「諦めるな、動き続けろ、押し続けろ。光に向かってはっていけ」

     

松井 洋子

     
 昨年の4月、チェコを訪れた時に、“ENOLA”というタイトルのコンテンポラリーダンスを観ました。会場に着くと、真四角の解説の用紙が配られ、その用紙には「被爆者、千羽の鶴の伝説と日本の美的概念のインスピレーションをとって作成した舞台です。この舞台を見てあなたの脳裏に浮かんでくるのが何かが一番大切です」と書かれてあり、点線の通り折っていくと鶴が出来上がりました。
 その鶴をたずさえて席につくと、少女が舞台奥上手で鶴をせっせと折っています。突然の音と共に白い粉が降ったかと思うと、天井からぶら下がったブランコに少女が曲芸のごとく空中をひとしきり舞い、床にたたきつけられると流れ出てきた墨の上でのたうち回り、墨で全身が真っ黒になっていきました。舞台いっぱいに和紙が広げられ、少女が長い髪の毛をまるで筆のように大きく振りかざし描いていきました。私は、被爆して原爆症で倒れた少女サダコの苦しみがダンスの動きとなっている様を思い浮かべ息を飲む迫力に圧倒されました。
 原爆で倒れた人々と原爆の灰が黒い雨になり、人々を濡らして皆おばけのようになっている姿が浮かびました。「原爆って本当に怖いよね」というサダコのことばが思い出され、静寂の中で天井にぶら下げた墨絵はサダコの確かに生きていた証の刻印のように私には思われてなりませんでした。
 ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)へのノーベル平和賞受賞で、被爆者として初めて演説に立ったサーロー節子さんは、広島女学院高等女学校に在籍していた13歳の時、爆心地から1.8キロの学徒動員先で被爆しました。建物の下敷きになり死を覚悟しましたが、九死に一生を得ます。
 その時にかけられた「諦めるな、動き続けろ、押し続けろ。光に向かってはっていけ」ということばを、核兵器廃絶への道のりになぞらえて世界中に伝えた演説は、とても力強く人々に届けられました。原爆の恐ろしさを忘れてはならない、「諦めるな、動き続けろ、押し続けろ。光に向かってはっていけ」のサーロー節子さんのことばを、唯一の被爆国の日本人として私は心に強く刻みつけました。
     
     
     

     

からころステージ2019
     

ジェフ・モーエン

     

 私は折り紙が大好きです。紙を折ることで、「千羽鶴」に組み込みたいと思っていた形がくっきりと立ち現れてきます。今回、ダンスの多くにきっちりと折り鶴のように左右対称の形を取り入れました。これは折り紙をきれいに仕上げるうえでも大切な要素です。
 学さんは、二つの物語の組み合わせ“日本”と“カナダ”の対比を音楽でみごとに創りだしました。そのおかげで、私は日本のシーンでは腕の動きに、カナダのシーンでは脚の動きにそれぞれ焦点をあてた動きを可能にしました。松井さんの詞(ことば)は、それぞれのダンスの雰囲気によい感覚を与えています。
 美しい動きを創りだすためのリハーサルは楽しく活力に満ちたもので、からころの人たちもオーバー・ザ・レインボーのメンバーも一生懸命取り組んでいます。
 ピッコロ・シアターでみなさまとご一緒に今回の作品を見ることが楽しみです。

(訳:吉沢 郁生)

     
     
     
I love origami. The activity of folding paper results in a clean shape which I wanted to incorporate into “1000 Cranes”. Many of the dances have a strong symmetry which is essential for successful origami.
Gaku-san created a nice contrast in his music between the Japanese and Canadian sides of the story. This allowed me to make movement that focuses on arm work for the Japanese and leg work for the Canadians.
Matsui-san’s lyrics gave me a good feeling for the mood of each dance.
Karakoro and Over the Rainbow members worked hard during rehearsals creating some very beautiful movements and giving me energy and good spirits.
I’m looking forward to seeing this production with you at the Piccolo Theater.
     
     

Jeff Moen

     
     
     

     

手渡すのは私
     

橋本 佳代子

     

 昨年の11月に新しい脚本をもらってから、私たちは子どもたちも含めて、みんなで脚本のテーマのひとつである原爆についてグループに分かれて学習することにしました。「原爆とは何か?どんなことがあったか?」「原爆症」「なぜ日本に原爆が落とされたのか?」「第五福竜丸」「ラッセル・アインシュタイン宣言」「平和大行進」といった内容を勉強し、発表する時間を持ちました。そのようなときに、豊中市に広島や長崎の被爆体験の語り部をされている方がいるという話を聞き、お話していただくことができることになったのです。11月には長崎での被爆体験を、12月には広島での被爆体験を聞かせていただくことになりました。


 私がお話を聞いて一番驚いたのは、被爆したことでたいへん厳しい差別を受けたということです。16才のときに長崎で被爆したある男性の話を豊中市原爆被害者の会前会長の伊達さんがしてくださいました。この男性は、被爆後、何とか生き延びて郷里の高知に帰り、復学を希望します。ところが被爆者だと聞いた途端に、それまで「あなたは本校でただ一人の出征された我が校の誉れです」と言っていた校長の態度が一変し、復学は許可されない。結婚も破談になる。父親は彼の被爆証明書を燃やしてしまう。そして被爆したことは伏せたまま結婚します。子どもが生まれたときに発熱と黄疸が出たときには、「自分が被爆したことと関係があるのではないか?」「この子が、被爆者の子として差別を受けるのではないか?」と苦しむが、妻に話すことはできない。そして無事に二人の子どもたちが成長し、結婚し、戦後43年を経て、59才になったとき、初めて被爆者健康手帳を申請します。吹田の病院に行って、豊中市被爆者の会の活動を知り、何かの役に立ちたいと国会への請願などの活動で東京に出かけているときに不審に思った妻に聞かれて、初めて被爆者であることを妻に打ち明けたというのです。原爆症というからだへの痛手だけではなく、このような根強い差別に長い年月苦しんでこられたということが驚きでした。


 そしてお話を伺うと、原爆の恐ろしさはもちろんのことですが、ご家族や友人を亡くされた深い悲しみが伝わってきました。長崎出身の伊達さんは12才のときに爆心地から6.5キロ離れた場所で共同防空壕を作る学徒動員をしていて被爆。爆心地近くにあるわが家までなんとか帰ろうとして、肩から指先まで皮膚がぼろ切れのように垂れ下がった人やガラスの破片が体手足中に突き刺さっている人、黒焦げの死体の中を戻っていきます。家の近くで何とか母と姉と出会うことができて、抱き合って喜びます。しかし避難した何百人という被爆者が運ばれた講堂で次々と重病の人が死んでいく中、母と姉は傷の手当もしてもらえないまま、1週間後に板張りの上で苦しみながら死んでいきます。母と姉のお骨を渡されて、途方にくれた12才の少年は、小学校3年生のときに母に連れていってもらったお墓まで行って、お骨を入れてあげよう、そして母と姉の分まで強く生きようと思い立ち、汽車に乗ってお墓に向かいます。墓守をしてくれている家に着くと、「伊達のちっちゃなボンがお母さんとお姉さんのお骨ば持ってきんしゃった」と言って、墓守の家族がわんわん泣いたそうです。
 広島で10才のときに被爆した有田さんは、爆風で吹き飛ばされた家の屋根に押しつぶされて唇が千切れ手首に怪我をした父親、からだ中にガラスの小片が刺さった母親、天井の梁が当たって頭蓋骨が10cm出ている兄と共に、黒焦げの死体や焼けた皮膚が垂れ下がり人間と思えないほど変わり果てた人々の中を逃げます。避難所ではどんな重症の人も赤チンやヨーチン、包帯を巻く程度の手当てしか受けられなかった。校庭の片一方では、毎日うず高く積まれる死体がどんどんと燃やされる有様を見る。その臭いのすさまじさ。そして頭蓋骨が出てしまった兄は数ヵ月後に原爆症で亡くなります。それでも家のお墓に入れてもらえるだけましで、学徒動員の作業中に死んだ兄と、川に遊びに行ったまま死んだ弟は、お骨もみつからないまま-と話されました。


 ひとりずつの方々がこのような苦しみにあい、それを乗り越えて、戦後74年間を強く生きてこられた。「できることなら、そっとしておいてほしい。つらい体験を思い出したくない。忘れたい」という気持ちがある。「しかし、誰かが次の世代を担う若い人たちに戦争の悲惨さ、原爆の恐ろしさを少しでも語らなければ・・」という思いを持ち、こうして80才を越えて、私たちに語ってくださっていることが痛いほど伝わってきました。


 今回こうしたお話を直接に聞くことが出来たことは、私にとって得がたい体験でした。共感するこころ、伝えたい気持ちを今日来てくださったお客さんに、手渡された平和への祈りと願いを繋ぐために精一杯舞台で表現したいと思います。
     
     
     

     

千羽鶴の衣装

     
緒方 滋

     
 舞台を作りあげる上で、美術グループは不可欠の存在です。リーダーの伊澤さんを中心に、舞台装置や小道具を作ったり、それを運んだり、舞台の設営をしたりするのが主な作業です。ダンスの振り付けに招いているジェフ・モーエンさん始め、演出の松井さんから、我々美術グループに舞台装置や小道具のアイデアについて、色々な指示が来ます。この「千羽鶴」のためにも、たくさんのアイデアをいただきました。その中の、鶴の衣装について紹介します。


 「千羽鶴」の衣装のアイデアは、ジェフさんがネットで見つけた2種類の画像がもとになっています。一つは、厚紙で作った折り鶴をそのまま被ったような立体的な衣装です。もう一つは、大きな紙を折り紙にして、身にまとったイメージです。
 「千羽鶴」の舞台では、折り鶴がたいへん大事な役割をします。折り鶴には、いろいろな思いが込められています。1000羽折れば病気が治るという伝説に込めたサダコさんの思いや、お父さんの借金をなくしてあげたいという思いが込められています。そして、サダコさんの死後は、核兵器をなくして二度と悲劇が起きないようにしたいという、世界中の人たちの願いが折り鶴に込められています。衣装の試作は、リーダーの伊澤さんと、創作の得意な中谷さんが担当しました。まず、二人がそれぞれ案を考えて持ち寄り、演出の松井さんに見てもらいました。それを見て、松井さんがアドバイスをして、さらに二人が知恵を出し合い、また見てもらうということを繰り返して、試作は完成に近づいていきました。
 試作ができたら、今度は演者全員に衣装を渡さないといけません。ダンサーにも制作を手伝ってもらいました。衣装グループは、制作にも協力したし、その後の着付けの仕事にも、総出でがんばりました。ダンサーによって、背の高さも体型も違います。一人一人時間をかけて、衣装の着方を説明したり、肩紐やベルトの位置を調整したり、着方の改良をしたりしていきました。


 立体的な方の衣装は、途中から望月さんが、伊澤さんの仕事を助けました。この衣装は、首の部分をどのように頭にフィットさせるか、尻尾の角度をどのようにキープさせるか、たいへん難しいのです。二人は、相談を繰り返して改良を重ねていきました。稽古中に踊っているダンサーの衣装がずれてしまうと、伊澤さんも望月さんも、「ああっ!」と、悲しそうな顔になります。
でも、伊澤さんは、「この段階で問題が見つかるのは、いいことなのよ。演者にもたくさん指摘してもらって、どんどん改良して本番でしっかりできてればいいんだから。」と言って、我々を励まします。


 美術グループには、創作の得意な人もいれば、苦手な人もいます。木工の好きな人もいれば、こつこつ縫い物をするのがうまい人もいます。それぞれの良いところを生かして、協力して動かないと素敵な舞台は作れません。演者や他の裏方との連携も、もちろん大事です。コミュニケーションが命です。


 演出の松井さんは、「舞台の真ん中に立ちたがってばかりいる人は、芸術がわかってないんです。」と言います。舞台は参加者全員で作り上げるものです。どんなに短いセリフ一個でも、本気で出したものでなければ舞台全体がダメになります。小道具一個にしても、心がこもっていなければ、同じことです。逆に、参加者全員が力を合わせれば、舞台はどんどん輝いていきます。松井さんの言葉は、美術グループだけでなく、私たち全員への励ましと同時に、戒めとなっています。
     
     
     

     

演奏が楽しい!!
     

岩居 健太

     

 からころの公演で合奏を本格的に始めて、10年ほどがたちました。
 今までいろんな楽器に取り組み、現在、テナーサックスとバスクラリネットを演奏しています。楽器はもともと好きだったのですが、特に中低音の楽器が好きで、テナーサックスを吹き始めた頃は、音が出るだけでも嬉しかったです。合奏練習が進んでいくと、音が出て楽しいということだけではもちろん通用しません。指揮者の合図を見たり、他のパートの音を聞いたり、色々とやらなければなりません。私は「合奏で音程を間違えるのは、目立つからよくない」と思い込み、楽譜にかじりついて演奏していました。楽譜ばかり見ている私は、指揮者の合図を見ることはできませんし、他のパートの音を聞くこともできません。私は「音程よりも、他のパートと音を出すタイミングを合わせることが大事」という考えに行き着くまでに時間がかかりました。それくらい私は思い込みが強かったのですが、楽団として本番を何回か経験していくことで、余裕も出て、やっと私は他のパートと合わせることに重きをおけるようになっていました。
 しかし、音を合わせるだけが合奏ではないんだということを、この1年ほどの合奏稽古で痛感するようになりました。ある時、合奏の稽古で、松井学さんから「あなたたちは、なぜ楽器を演奏したいの」と問われました。このとき、私を含め楽団メンバーは答えに詰まりました。少なくとも、私は、これまでの演奏で「こんな演奏をしたい」など考えて演奏していなかったからです。楽団メンバーが答えに困っていると、学さんから「きれいな音で演奏したいと思っているのでは?」と言われました。私はもちろん、楽団メンバーの全員がハッとしました。言われてみて、自分が楽器の演奏で一番したいことは、まさにそれだと思いました。
 最近の稽古では、ただ単にきれいな音だけでなく、自分が表現したいイメージを楽器でどのように表現するか、ということが大きな課題となっています。この後からの稽古では、私は以前よりも演奏が楽しくなりました。もう少し言うと、すべて学さんの作曲したものでその作曲家、指揮者の合図を見て、どんなことができるか、可能性はどんどんひろがっていきます。
 照明、音響、舞台美術、役者、ダンサー、合唱、そして合奏の皆もいろいろ試行錯誤して舞台を作っています。Karakoro Stage 2019 千羽鶴を隅々まで楽しんで下さると嬉しいです。
     
     
     

     

私のお気に入りのシーン

「宇宙大戦争」
     

緒方 滋

     

 「スターウォーズ」の第一作目を劇場で見たのは、1977年のことで、僕はまだ二十歳でした。オープニングから圧倒され、終わりまで興奮しっぱなしでした。
 それからは、続編が出る度に映画館に出かけて行きました。だから、僕は初めて「千羽鶴」の脚本を読んだ時に、宇宙大戦争ごっこを子どもたちがやるシーンがあるのを知って、うれしかったのです。僕は、子どもたちの立ち稽古を見ながら、「ライトセーバーはそんなに軽くないぞ!」とか「チューバッカの声はそんなのじゃないぞ。」などとブツブツ言っていました。自分が生まれる前の映画のことなど、若い演者は知るはずもないのですが、僕は、スターウォーズのファンとして楽しんでいたわけです。しかし、なぜシナリオの中に宇宙大戦争ごっこをするシーンが必要なのか、僕は考えようとはしませんでした。
 公演まであと1か月に迫った日の稽古のことです。このシーンの稽古をつけている時に、演出の松井さんは、リー役の演者に、リーは、バディーを立ち回りで圧倒しなければいけないと教えます。怪訝そうな顔のリー役の演者に、松井さんは次のようなことを教えました。


 リーは、バディーより強いのです。リーとバディーの関係は、母親とバディーの関係の相似形だからです。「父上、もはや憎しみは忘れるべきです!」というバディーのセリフは、親を超えていこうとするバディーの意思を表しています。映画の中では、ダース=ベイダーは、もともとライトサイド(光明面)側のジェダイ(騎士)でした。しかし、色々ないきさつがあり、ダース=ベイダーは、ダークサイド(暗黒面)に落ちて行きます。ダース=ベイダーが自分の父であることを知ったルークは、命をかけて父を暗黒面から救おうとします。最後は、暗黒皇帝に殺されかけた息子を、ダース=ベイダーは自分が死んで助けます。
 「千羽鶴」のクライマックスでは、お母さんを原爆の恐怖から救いたいというバディーの思いが、お母さんを変えます。宇宙大戦争ごっこのシーンは、クライマックスへの大切な伏線になっていることを、松井さんは僕たちに教えました。


 この物語は、登場人物が成長していく物語です。カナダの登場人物のことで言えば、バディーは自分がお母さんと違う価値観を持っていて、いいことに気付きます。そして、色々な人が色々な意見を持つことが大事なのだと分かります。バディーのお母さんも、息子の人格を認めることで成長します。リーは、ハーマン親子に真剣に関わることで大人になっていきます。そして、年をとってもまだまだ未熟な僕たちも、舞台を通して少しでも成長したいと考えているのです。
     
     
     

     

「運動会」
     

金子 紀子

     

 青空の下で、色とりどりの旗がはためいています。さあ、運動会の始まりです!おじいちゃん、おばあちゃんから私のちいちゃな娘のもも、息子の史、友達の奏ちゃん、大きなお兄ちゃん、お姉ちゃんまで、みんなの嬉しい気持ちが一足お先に走り出しています。校長先生の挨拶が終わったら、いよいよみんなの出番。玉入れにパン食い競争、リレー、心を一つにして楽しんだ一日。
 原爆が落とされた後の広島で、こんなあふれる笑顔が戻ってきた一日を、どうぞ皆さまも一緒に楽しんで下さい。
     
     
     

     

「昭和のシーン」
     

廣畑 由佳

     

 軍歌しか許されなかった戦時が終わり、町や村あちこちに流行歌があふれました。その歌声は苦しい時を生きる人たちを明るく励ましました。その中から「鐘の鳴る丘」を子ども達が歌います。
 縁台で将棋する男達 好きな本を読める喜びにわく古本屋 銭湯に行く人々 お祖母さんに背負われた坊や テレビなどない時代子ども達に憧れのヒーローを見せてくれた紙芝居屋 石蹴りやゴム飛びメンコ、路地裏で遊ぶ子ども達。
 戦争で何もかも失った人々は、明日への希望を胸に慎ましくとも喜びや楽しみを見つけ活力に溢れた生活を取り戻そうと、懸命に働きました。
 どこからか懐かしい豆腐屋のラッパやラジオの声も聞こえてきそうです。
     
     
     

     

「星となって」
“死んでなお生き続ける”
     

中尾 久未子

     

 サダコがお兄さんと一緒に星を見上げ、原爆で焼かれて亡くなったばあちゃんのことを思います。サダコは「自分も白血病で死んでいずれ星になるだろう、それでもみんなのことをばあちゃんと一緒に見守るけんね」と歌います。松井学さん作曲の美しいメロディと松井洋子さん作詞の切ない歌詞、そしてジェフ・モーエンさん振り付けのゆったりとした動きの中に意志の感じられるダンスが、静かに光り続ける星のようです。 
 私は父を16年前に亡くしました。長く患っていたものの、別れは突然でした。父が生きていたなら…と悲しい気持ちになることがたびたび起こりました。しかし亡くなってからも父は私の中で確実に生き続け、そしてその存在は大きくなっていることに最近気づきました。子どもたちの表情に父の面影を見つけうれしく思うこと……家族と父のことを話すときには父と過ごした楽しかった数々を思い出し、父との絆を強く感じること……そして、自身の日々の行動や考え方に父の影響を感じる時……たしかに私の中に父は生きているのです。
葬儀の際、父の友人が「彼は小説家になりたいと言っていた」と話してくれました。私はもちろん、家族は誰もそのことを知りませんでした。しかし、思い返せば、父はたくさんの本を読み、タンスの中には原稿用紙を置いていました。私の書いた作文を一緒に手直しし、それを全校に放送する機会を得たこともありました。“死んでなお生き続ける”と私に話してくれた松井洋子さんの言葉が胸に沁みます。
サダコの父親は召集され戦争に行き、母が散髪屋を切り盛りする中、祖母は家族のために家事をし、サダコ達子どもの面倒を一手に引き受けて、そして原爆で焼かれて死んだことを私は最近知りました。それを知って二人の子育て真っ最中の私に、ばあちゃんとサダコが一挙に私の内に新しく生きいづることになりました。サダコの悲しみと原爆への怒りを私は歌い踊ります。
     
     
     

     

「平和大行進」
     

小田 早苗

     

「平和大行進はどうするの?来なきゃ駄目よ、バディー」
 これは、バディーの友達、リーの台詞です。
 この脚本を初めて読んだ時、カナダの子ども達が「平和大行進」に行くか行かないかと口論するシーンに驚きました。なぜなら、「世界で唯一の被爆国」に生まれた私ですが、日常生活の中のどこにも「平和大行進」はなかったからです。
 そんなバディー達が暮らした1980年代はどんな時代だったのだろう、と調べてみました。当時、東西冷戦のさなか、いつ核戦争が起こってもおかしくないという世界情勢で、大いなる危機感から、世界中で、平和運動が盛んに行われていました。
 カナダでも平和への気運が高まり、1986年には、バンクーバーで最大規模の平和大行進「walk for peace 」が行われました。人種、宗教、政治、年齢の違いを超え、教師も生徒も、大人も子どもも(バギーに乗った赤ちゃんも)、様々な人々が10万人以上も参加したそうです。その時の映像には、風船を持ったり、楽器を演奏したりしながら、笑顔で楽しそうに行進する人々が映っていました。まるでお祭りのようです。


 バディーは、葛藤しながら、友達からの平和大行進への誘いを拒否します。そして、カナダ政府が核戦争に備えて、政府要人のために大きなシェルターを作る、という時代の空気に影響を受け、バディーは、市民向けの核シェルターのパンフレットを参考に、核の恐怖から身を守ろうと防空壕を作ります。
 当時、バディーのように核兵器に怯える子どもはたくさんいました。バーナビーという都市の80%の子ども達が、核戦争で死ぬことを恐れていたそうです。『千羽鶴』の原作者コーリン氏は、バンクーバー新報で、次のように述べています。
「多くの子ども達が核の恐怖に怯えている。実際に学校に行って、子ども達に話を聞いてみると、それが事実だと分かりました。子ども達は核戦争に脅威を抱いているが、誰に伝えていいか分からない。自分だけで恐怖と戦っている子ども達の姿に心動かされました。」コーリン氏はそうした事実をきっかけにこの脚本を執筆したそうです。


 東西冷戦が終わって30年。しかし、今なお、国と国との対立があり、世界のどこかで戦闘が絶えず、核兵器は増え続けています。
「核兵器も戦争もいらない。今、僕たちができること、今、私たちができること。一緒に行こう、平和大行進」という子ども達の台詞のように、世界中で、平和への地道な取り組みがなされています。
 私達からころメンバーができること。それは、皆で勉強し、平和への思いを舞台で表現すること。私達にとって、舞台を作ることは、まさに「平和大行進」なのです。
     
     
     

     

「原爆の子の銅像」
     

木村 多喜子

     

 今回、はじめて「子どもと大人で創るステージ」のコースに参加しました。長年からころステージにずっと参加したいと遠い長野県から願い続け、ようやくかなえられました。
 参加するようになって、皆がどれだけ広く深く勉強し、丁寧に稽古を重ね、家族以上に支えあっているかを知り驚きました。人数も多く、幅広い世代が共に稽古をするのはいろいろな工夫や努力が必要です。様々なことを乗り越え成長し、創り上げていくからこそ、からころステージは観客に感動と勇気を与えるのだと知りました。
 今回の「千羽鶴」の中で、私の好きなシーンの一つにラストの太田川のシーンがあります。これまでにも、からころステージでは美しい「灯(あかり)」が使われてきましたが、この太田川のシーンでは、灯篭が登場します。
暗い太田川にゆっくりと送り出される灯篭。その岸辺では、祈りを込めて手を合わす人の姿が見えます。千羽鶴に託したサダコの願いだけでなく、平和を願う私たち一人ひとりの祈りが灯篭の「灯」に込められています。
 歌われる曲は「手渡すのは私」です。私は未来に何を願い、次の世代に何を手渡していくのだろうかと考えました。私自身が毎日を平和な心で大切に生きることだと悟りました。その一日一日が、きっと子ども達の未来の平和に繋がるのだとも。
 ステージに上がれるように支えて下さった松井洋子さんをはじめ、からころの皆さん、そして家族に心から感謝します。
     
     
     

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